生死の迫間に生きる
−深貝慈孝教授を偲んで−

私たちの生きている世界では、あまり死のことを話題にしたがらない。もちろんここでも、毎日たくさんの人が死んでいく。しかしその死は新聞の死亡通知欄ほどの持続力を持つことがない。「あの人が死んだ」その瞬間から今まで生きて感じ、考えていた人間は全くのっぺらぼうずで抽象的な「死」と言う概念の中に消え去ってしまうように感じられる。死と断定された瞬間から、その人はなにやら人間の知性の全く手の届かない、真っ白な領域の中に送り込まれ、私たちがまだそこに属している「生」の世界には無関係な「無」の中に消え去っていってしまう。そんな風にして現代の人は次々と死んでいくのである。

それ故に、人々は自分の健康のことや病気のことについては、たっぷりとおしゃべりをしても、死そのものについて、死というリアルについては、それを「死」という概念を超えた領域にまで踏み込んで思考しぬこうとはしないものである。ましてや自分の行っている学問や仕事の意味を、死を中心の軸にして捉えることもしない。一切の思考貸しの前でストップする。知性は死を前にして沈黙に陥り、そこには真っ白な「死」という概念しか残らない。こうしてみると、いかに私たちの生きている科学的で技術的な世界が抽象的で観念的、形而上学的に出来上がっているかが分かる。この小論を通じて、私は突然の病によって倒れ、13ヶ月の闘病生活の末に「死」を迎えられた深貝慈孝師を偲び、病床に合ってもなお、自ら浄土宗のあるべき道を求め生きられた一面を振り返り、師の生と氏の迫間について述べる次第である。

直線上に配置

佛教大学教授、深貝慈孝師が住職をしておられたのは、京都の御室仁和寺乃東側に立っている 浄土宗獅子吼山転法輪寺である。本堂には丈八の阿弥陀如来の坐像があり、坐像の前の柱には、善導大師の「一心専念の文」―――一心専念弥陀名号號行住坐臥不問時節久近念念不捨者是名正定之業順彼佛願故、と大きく書かれている。

 師は、私にとっての師僧であり、中学・高校時代を通じて同級生でもあった。中学時代は師に本堂でオルガンをひいてもらったこともある。

私がえんあって、五十六歳で出家して以来、佛教大学の授業や個人的会話の中で、法然上人の浄土の教えをよく説いてもらった。

 師は平成十二年八月二十日頃に、腹部に異常を感じられた。そこで私と一緒に京都府立医科大学病院に行かれた。しかし、それに起因するガン細胞のリンパ節への転移によって、平成13年十月十三日に病院で息を引き取られた。この間、病院では医師たちがプロジェクトチームを組んで、十種類にも及ぶ抗がん治療をほどこされた。師は抗がん治療の副作用に忍耐強く耐えられた。しかし、その成果もなく六十二歳と言う若さで逝去されたのである。師が入院中のある日、師と「生と死の迫間」について話したことがあった。そのとき師は「ここによい見本があるよ」と冗談交じりに自らを指して、私にそれを書くように言われた。

 師は最初から自分がガンであることを知っておられた。しかし、現在の治療によって、それを克服する気持ちが強かった。そして、退院すれば、自坊の仕事に専念したいと心きめておられた。そして、入院の年の十一月から十二月にかけて、浄土宗教学院の「佛教文化研究」第四五号掲載予定の「住生浄土の理解」―――浄土宗教師として―――と題する原稿を書き上げられた。毎週のようにお見舞いに元佛教大学教授坪井俊映御夫妻も来ておられた。坪井先生は教学上の問題点の相談をよく師に話されていた。

 病床での執筆ではあったが、「この期間は思わず心にこみ上げてくる浄土宗への厚い想いがとどまることなく、自然にペンが走った」と言っておられた。病院のベッドの上でこれといった資料を用いず、師の脳裏をはせる思いをその小論文に託されたのである。

 その後、治療の成果もあってか、快復に向かわれ、平成十三年四月には、医師から退院可能と告げられた。しかし、がん細胞の一部が他に転移しているのが発見され、退院はとりけされた。

 そのとき、私は「先生のような信仰心の深い人は極楽に生まれるに違いないですよ」と言った。すると先生は「極楽に行って還ってきた人は居ない」と話されたので「先生らしくない言葉ですね。」と師に私は言った。それでも師は何となく寂しげに微笑んでおられた。

つづく (しばらくお待ちください)