蕪村を育む母の愛

―波乱に富んだ幼少時代―

与謝蕪村の生誕地については、未だに明らかではない。大阪の毛馬村説、正岡子規の天王寺説がある。それでも文献的な資料から、現在は毛馬村説が有力である。ましてや二十歳までの蕪村の人生については、彼によほどの辛い想いがあったのか、殆どというよりも全く彼自身が話すことを避けたようである。

そこで私は、蕪村の幼少期に関する限られた文献や絵画によって、彼が子どもの頃どのように過ごしたかを推考してみた。

蕪村が生まれたのは、享保元年(1716)である。享保元年といえば、八代将軍徳川吉宗の登場した年である。この時代、幕府の財政はそれまでの危機を脱し、法制の整備、人材の登用において、一応その政治は安定したかのように見えた。これを「享保の改革」と称し、吉宗を徳川中興の英主と讃えたのも理由のないことではない。

しかしながら、この享保に始まる吉宗の時期は、幕府政治の表面的な静穏にもかかわらず、刻々と困難な事態を招来していた。先ずその封建社会の基礎である農村がそのままの状態では立ち行かなくなっていたことである。

米穀に年貢5割も増加しては、出すと入りとの大分の違ひ (略)近年越後男女を御入被成候事ハ午前政の方と存候。先年よりご当地男女多分二逐電仕たる内、一人も払証文調へ(にげ)たる者はあるまじけれども、皆他の郡に相(すみ候。

『笹野観音通夜物語』

これは米澤藩士の某氏が、享保十三年(1728)に人口の減少などによる農村の荒廃状態を物語り形式で述べた農政批判書である。この書に言うように重税による農民の他郡への「逐電(逃亡)」、あるいは「山家の土民、子を繁く産する者初め1,2人育しぬれば、末はみな省くといひて、殺す事多く」(西川如見「百姓袋」享保6年)というような状況は、当然藩内人口の減少をもたらした。それは米沢藩にとどまらず、全国的に人口の停滞減少が見られ始めたのである。

享保元年を境として、全国の人口は減少の一途をたどった。その事態は深刻なもの、というよりもおそるべきものであり、すべての農業一色の地域に現れていた。

農民は土地によって生きる者であり、最後まで土地にすがりつこうとする。そのため足手まといになるものをすべて切り捨てて生きなければならない。

人口減少の一つの原因を作ったものは、間引きであった。間引きというのは、本来は農作業で行うことである。野菜などの作物が十分に成長するには適当な間隔がいるので、適時密生した作物の一部を抜き捨てる。農民は、自分たちあるいは跡を継ぐ子どもが無事に生きていけるように、生まれて来る嬰児を間引きして犠牲にした。

粗食に甘んじて朝早くから夕方暗くなるまで働いた農民たちには子供が多い。貧しさに見合った出産でなければならないのに、かえって多産であった。しかしその生まれてくる嬰児をすべて健康に育てることはできないのである。

その子どたちが成長するまでに食べる米や穀物は、それが麦であろうと粟や稗の類であろうと、それは働く人間の肉体を食っているようなものだった。農民の生活には、年貢に取られた後の余分はほとんどなかったからである。「百姓とごまの油は搾れば搾るほど出る」と言われ、すっかり搾り取られた収穫の後には、いったい何が残っているというのだ。

農民は、一人の男の子を残すと、あとはたいてい「水にする」といって堕すか、あるいは鼻腔を抑えて窒息させた。そのころ村に住んでいた助産の経験者は、出産を助けることもあったが、堕胎の助けもした。それはまことに危険極まりない方法であり、その後この処置のため虚しくその身を滅ぼした婦女子は数え切れないほどであった。

直線上に配置

初夏の朝日が生駒の山並みから上り始め、淀川の堤に映えた。4,5歳ほどの幼児の手を引いて歩く母子連れがあった。二人は舟で淀川をさかのぼり、丹後の与謝に赴いた。それにしてもなぜあのようにして母は父のもとを去ったのか。幼い蕪村の目には、その日の朝がどう映っていたのだろうか。

蕪村の母げんは与謝の貧しい農村に生まれた。当時の農村にあっては、年頃になれば大阪や京都方面に働きにだされる。男は農村に残るが、女は都市部の豊かな商家などに勤めて、貧しい実家の生活の支えとなる。げんの母は夫に先立たれ、僅かな田畑を守って生計を支えてきた。幸い丹後地方は京都や大阪に隣接しているので、子どもを働きに出すことができたが、それでも農村における生活は先に書いたような状態にあったことに変わりない。尚蕪村の母の出身地は京都府与謝郡加悦町(現・与謝野町)ではないかといわれている。

げんは大阪郊外の毛馬村の村長宅に勤めることになった。やがて彼女は16歳になり、小柄ながら美しく成長した。そのげんを村長が密かに愛するようになった。そうして生まれたのが蕪村である。村長には正妻との間に娘が一人居たが、嗣子に恵まれなかった。そのため村長はげん母子を大切にした。げんにとっては優しい主人の愛の下にあって幸せでした。しかしその幸せも長くは続かなかった。

村長の妻にとって、げん母子の存在は許し難いものだった。そこで村長の親族と謀り薮入りという名目で、げんを与謝の実家に追い返そうとした。村長はそれを拒んだが、養子としてこの家に入っていただけに力およばず、蕪村を嗣子にするという条件でげんと別れることになった。

げんはこれまで愛してくれていた主人だけに、たいそう悲しんだ。その時の様子を蕪村が五十七歳のときに描いたのが「父母別離図」である。謝春星の名で彼は描いている。

この絵では、一軒の家が険しい巨岩にがんじがらめに包み込まれている。それはまるで自由な出入りを許さない隔絶された砦・要塞といった感じがする。流れを隔てて立つ旅姿の女人は厳しく拒絶されて、どこかしらひ弱な哀愁さえ漂わせている。

これは訪隠図ではなく、男女の離別の悲哀を絵にしたものだろう。とすれば、それは意識の中で遠い彼方に霞む父母の離別の恐ろしい記憶が潜んでいる。それは蕪村の意識の奥底に焼きついていたもの、あるいは無意識にしばしば夢の中に現れ出でて蕪村を脅かしていたものだったかも知れない。いずれにしても、これは蕪村の幼い心が捉えた画像に他ならない。


つづく (しばらくお待ちください)